亀野の言葉を選ばない雑記帳

かめのが徒然書くところです。真面目なことからパッパラエピソードまで。

中途半端な天才という生き方

時々、ネットで同志を探す。

大好きだけどマイナーなゲームタイトル。
ニュースや世論に対して思う不満。
時には苦手な英語を駆使してでも検索する。

それは最初に言った通り、数少ない同志の存在を確認したいからだ。
TwitterGoogle、完全一致、同義語に変更、色々な方法を使う。
そしてなかなか見つからない。寂しい。


「中途半端な天才」はつい最近探した言葉だ。
そして適切なものが見つからなかった。
だから私は、同じ言葉で探しているかもしれない世界のどこかの孤独な誰かの為にこの記事を書いている。


まず面倒くさいが天才という言葉について定義をしよう。あくまでこの記事上で、ということを留意してほしい。
以下、天才は“程度の差こそあれ、先天的に何らかの優れた能力(ここでは特に知力)を持つ人”とする。天が授けた才能、で天才だ。
秀才は「秀でた才能を持つ人」で、訓練で後天的に才能を得た人間も含む。
天才は秀才たり得るが、秀才は天才とは限らないということだ。
秀才は自らの訓練の結果なので望んで(あるいは親に塾などに通わされ、望まれて)得た力だが、天才は生まれつきなのでそうとは限らない。

それから、私の悩みは主に知能についてなので、芸術や運動の天才についてはここではあまり触れない。というかスポーツは死ぬほど苦手なんだよ

もちろん天からの才能を授かっても、適切な訓練や行動をしなければ何も実らせないだろう。
生き生きしている天才の多くは(それを努力と感じていないケースもあるが)何かしら訓練した人が多いと思う。その点でも現時点の私は中途半端だ。


本題だ。

 

1.微妙すぎる全検査IQ

私のIQは124だ。
これは一般人・一般社会に馴染めないという現象を引き起こし、知能検査の区分上は天才と言われるに十分な数値である。
しかし、では特別天才かというとまた微妙だ。

例として有名な高知能団体メンサは130から入会資格を得られる。足りない。だから私は入れない。
(でも言語理解のIQは139と基準を超えている。これが更にしんどさを生むのは言うまでもない。)


高知能団体などで似た者同士の友達が欲しいとも思う。しかしそれは叶わない。
一方で、普通の社会で苦痛を感じる日も多い。これは就職してから特に強く感じる。
IQ100の平均な人と130のメンサ入れるレベルの人がいたら、後者の方が私と近いんだよ。
でもどちらからも仲間外れだ。
素の自分で振る舞って、頭がおかしいくらいの扱いをされたこともある。
だから私は社会では口を閉ざす。良いアイデアを閃いても、それを受け入れてくれないことが圧倒的に多いからだ。それが酷いとか言うつもりはない。だってそれが世界の大多数だし、後からゆっくり考えたら確かに突飛なこと言ってるとは思うので。目の付け所がシャープ過ぎる。

 

2.偏りすぎている能力

言語理解のIQは139とだいぶ壊れ性能な私の脳みそだが、一方で苦手な分野においては一般人である。
しかもその苦手である処理速度という知能の側面は、どちらかと言えば作業・動作的なものなので、目で見てある程度分かる。普段の振る舞いに表れやすい。
反面、学力テストが頻繁に行われる学校という世界をを出てしまえば、知識面での優秀さはかなり意識的に発信しなければ周囲にはまず気づいてもらえない。そしてそれをやると大抵ウザいとか嫌味だとか思われがちだ。
だから可能な限り大人しくする。でも完全には隠せずたまにこぼす。見た目に分かりづらい思考そのものの重さとか厚さというものだけが強いと、周囲からはアンバランスな奴に見える。

「普段は鈍臭いのに突然何か言い出した。偉そうに」
「頭良いわりに基本的にポンコツだよね」

正直、どっちも思われたくない。
いじめの経験もあるし、アスペルガー障害もあるので対人能力に劣っているのは自覚している。何か事故ってもおたおたしてしまうので自力でリカバリをきかせられる自信はない。とにかく現状維持に気を使っている。この辺かなり神経質だ。考えすぎなのは知ってる。

とにかく言いたい意見も改善案も言えないのでストレスを溜め込んでいく。それに若造だし。
もっと何もかもがズバ抜けていれば発言が許されるだろうかと思ったりする。

 

知能の話ではなくなるが、運動能力も死ぬほど低い。体育の授業は通年週3であるのに、私みたいな奴が輝ける班での調べ学習やテスト期間なんかは年に数回しかない。特に小学校では体育が出来るか否かは人権問題だ。つらい。

 

世間一般の「天才」という言葉が指し示すもののイメージは、あらゆることに精通し才能を示すレオナルド・ダ・ヴィンチのようなタイプだと思う。
でも実際のところ、そんな万能人間はそうそう存在しない。普通の人々の多くに得意苦手の山と谷があるように、天才的なものを持つ人にも山と谷があることの方が多いはずだ。これは秀才でも同じである。
マンガのキャラででオール3の高橋さんとか逆個性って感じがするじゃないか。全能力値が均等なのって珍しいんだよ。きっと。

 

こんな風に「一般人にも天才にもなり切れない」あるいは(もしくは“かつ”)「全体の能力はそこまででもないけど一分野においてずば抜けた数値を記録してしまう」タイプの人間は一定数いると思う。

私は自分を「中途半端な天才」と名付けた。
ネタにするには低く、しかし社会の大多数には入れない知能指数

ドラマの天才設定のある主人公でIQ120台のキャラはおそらく存在しない。そのくらい124ってネタにならないと思ってほしい。
まあ200とかがほいほい存在する創作世界がクレイジーではあるんだが。
でも、クイズ番組で参加者の肩書きやキャッチコピーでネタになるのも低くて130、視聴者の目をしっかり引くには150は要るだろう。
だからマスコミでは一般的なビネー式の数値をキャッテル式に変換して載っけたりするのだが。キャッテル式換算なら私も138だ。わぁい天才。

150ある人なら引く手数多で逆に生きやすいよね!とかほざくつもりはない。
でも正直天才って羨ましいなあと思ってしまう。そこまであれば東大京大なんて設定も乗っかってくるし、何よりそれだけあれば世界の様々な話を理解できる。
私は知的好奇心こそ強いが、知りたいことを理解するには頭が足りないと悔しく思うことがある。(この辺は知能のバランスが偏ってるせいも多分ある)

私もGoogleくらいの企業に採用されないかな。いや適当に頭良さそうな社名挙げただけだから知らないやGoogleさんごめんなさい。


知能検査の結果をこうしてブログなどに書いている人もだいたい130は超えていることが多い。
これは日本で知能検査の存在感が薄く、よほど周囲から浮いてしまうとか不都合を感じた人しか受けないという事情もあるのだとは思う。
日本で知能検査受ける人=不都合発生レベルでぶっちぎっちゃった人、なのである。
だから私って大して高くねぇなと思うことがある。
ちゃんと(?)異常値なんだってば。

 

IQの高さからくる生きづらさと、そのくせ毒にも薬にもならない中途半端な高さとバランス。

そういう人間の為のサークルとか自助グループみたいなの欲しいな、と最近感じる亀野であります。もう設立するしか。