亀野の言葉を選ばない雑記帳

かめのが徒然書くところです。真面目なことからパッパラエピソードまで。

私のいじめ体験とその後遺症

様々な時間で止められてしまった時計が私の中にはたくさん転がっている。きっと死ぬまで動かない。



注意

  • この記事には精神的にかなりきついことが書かれています。特にいじめ経験者はしんどくなる可能性があるのでご注意ください。
  • 当然のことながら、私は世界を私の主観を通してしか観測できません。私の言い分しか書いていないということなので鵜呑みにしないように。

 


風の噂に、私をいじめていた奴(以下A)の父親が死んだと聞いた。
そういえば、謝罪、無かったな、というのが私の感想だった。

まあ謝罪なんかされたところで何にもならない。ましてA本人ではなくてその父親からなんて。謝られても私の失われた十数年は帰って来ないし私の鬱も治らない。
でも、本当に何も無かったと思うと虚無だった。
彼の中で、Aは可愛い娘だったのだろうか?彼は娘の罪を知らなかったのだろうか?

そんなことを考えてると嫌でも色々思い出されて、色々な感情が止まらない。
吐き出しも兼ねてここに書くことにした。どうせいつか書くつもりだった。

本当は冬に書こうと思っていたのだが、冬は私の精神が一番安定しない時期でもある。その時に回顧するのもストレスだなと思った。

 


まず私のいじめ体験は3つに分けられる。
小4クラスの男子にいじめられたもの
小5のクラス替えから別の男子にいじめられたもの
小6の冬に友人から無視をされたもの

さしずめ第一次、第二次、第三次というところだ。世界大戦より多いじゃねえか……


【第一次いじめ】

確か小4の初夏くらいだ。

きっかけは些細なもので、公園で遊んでいたら私の自転車のカゴに意図的か偶然かは知らんがお菓子の袋が入っていた。
それを見たクラスの男子数名が私のことを執拗に「ゴミ箱」と呼ぶようになった。
それから事あるごとにからかわれた。本名をアナグラムして下品な言葉にして笑われたりした。
何故なのか分からない。彼らとは小3のクラス替えで同じクラスになった。その時には仲は悪くなく、むしろ私は面白い友達だと思っていた。学年が変わって急に態度が変わった。
担任にも数回訴えたが、困ったことに主犯の男子は先生の説教が全く通じない児童だった。
彼は学校内で有名な教育ママの息子だった。一説によると、彼が恐れるのは母親ただ一人。あまりに母親が恐ろしくてそれ以外に恐ろしいものが無いらしかった。担任が怒ってみせても効力が無い。

彼は塾を含め多くの習い事をしていた。学年でもトップクラスの成績、運動も抜群だった。
……後の推測の一つなのだが、困ったことに私も学年トップクラスの成績だった。習い事は無しに。
平家物語の暗唱テストなど、大っぴらな場面で彼を負かしたこともある。
我が家は礼儀やマナーに関するしつけは厳しかったが、それ以外は比較的寛容だった(私がそもそも説教されるような逸脱行為をしなかったというのもある)。成績に関して特に何か言われたこともない(文句言われる成績でなかったというのもある)
このいじめは努力もせずに成績が良いことへのやっかみだったのではないか、という説がある。真相は闇の中。
なお私の運動能力はからきしだった。もちろんいい攻撃のネタだったよ。


【第二次いじめ】

小5のクラス替えで小4のいじめっ子とクラスが分かれてホッとしていた。新しく友達も出来た。
しかし安息はつかの間、別の男子グループからいじめられた。
理由は知らない。教えてももらえない。
でもこれの主犯(以下B)もお受験っ子だった。中学受験シーズンに1週間登校してこなかったから相当のガチ勢だろう。もしかしたらストレスもあったのかもしれない。

まあ頭が良くても学歴良くても人格がクズならお終いやなとは思うよ。

毎日「死ね」「ウザい」「消えろ」「デブ」(当時の私はむしろガリだったのに!)「ブス」「ババア」などひたすら罵詈雑言を投げられた。
母曰く、私に攻撃できるような隙が無いからロクな言葉が出ないんだと。でしょうね。私の方が成績良かったし。とはいえこれが毎日毎日だ。病む。
この辺りからそれまでずっと真面目にやってきた宿題が出来なくなった。鬱もあったのかなと今なら思う。

ちなみに、この頃には私のクソ真面目さは同級生にも鬱陶しがられるようになり、いじめ以外にも辛いことが増えていた。私の卒業文集のネタでもある。

 

一番酷かったのが小6の3学期。Bとその取り巻きと生活班が同じになってしまった。しかも、「中学の内申に書けるようにクラス全員平等に班長経験しよう」とかいう謎制度のせいでまだ班長経験が無かったBが自動的に班長になった。

Bは班長の権力を振りかざして私に嫌がらせを繰り返した。見えていた展開。

例えば、配膳される牛乳を「一人分余計だよ」と給食当番に返す。もちろん数は間違っていない。私の存在を否定するために私の分を返却するのだ。

生活班がそのまま体育のリレー班なのも地獄だった。なんで冬の体育はリレーにマラソンとランニングばかりなんだ。私は尋常ではない運動音痴故、「亀野のせいでビリだ」と何度も貶される。Bもたいして運動得意でもないし、取り巻きに至っては私とどっこいだった。なんで私なんだ。

歩いていると転ばされる。すれ違いざまに唾を吹きかけられる。
上履きを男子トイレに放り込まれて、仕方なく拾いに行けば変態呼ばわり。

顔のほくろを「顔にうんこ付いてるよ!」とからかわれる。
背の順で並んで隣り合うと嫌な顔をして、わざと遅く歩いたりして列を乱す。私が悪いと言わんばかりの顔で。勝手にやってろ

 

これは卒業するその日まで続く。

 

毎日うんざりだった。それでも学校に通って楽しくいられたのは、クラスに親しい友人達がいたからだった。だいたい8人、ここの縁で知り合った他クラスの子を入れて10人くらいのグループだったと思う。
彼女らに励まされて毎日学校に行けていた。
帰りも校門でずっと立ち話してから別れていた。

 

【第三次いじめ】

だが、そんな友情だって結局カスだったのだ。

6年生の1月、3学期初日。
登校して教室の友人に挨拶をしても返事が無かった。

シカトの始まり。
混乱する私を見て、元友人達は嗤っていた。

数日後、絶交を言い渡されて私は泣いた。
「亀野さんのこと友達なんて思ったこと一度も無いよ」と言われた。
その場では強がって「知ってたよ」と返したが、彼女らと別れてから泣いた。
床の木目を睨みながら泣いたせいで、今でもその床の模様を思い出せるし、その木目は私の中で一種の象徴めいたものとして、息苦しさを連れてくる。

これの主犯が冒頭に登場したAである。
Aはとても私と仲良くしてくれていたメンバーのうちの一人である。
Bのいじめも彼女達がいたから耐えられていた。
理由は分からない。聞いても教えてもらえなかった。シカトされてるし。

救いは、このいじめに加担せず、私側についた子が二人だけいたことである。ただし、一人は他のクラスであったこともありクラスでは結構孤立していた。
この味方曰く、「亀野さんと仲良くするのはやめな」とAが持ち掛けてきたらしい。陰口とかも言っていたようだ。

学校の先生は……どうだったのだろう。あれだけ騒がしければ少なくともBのいじめは気づきそうなものだが介入は無かった。
Aのいじめは、あまり大事にしたら仲直り出来ない気がして相談出来なかった。あんな奴らと仲直りの必要なんてないのにね、今思えば。当時の私は優しかったし、希望も捨ててなかった。

校外学習の時、昼のお弁当を食べる時にハブにされたのは泣いた。A達に意図的に孤立させられたのだ。泣きながら先生の方を見たが誰も助けてくれなかった。

なお当然ながら、B達によるいじめも並行して行われていた。
正直、初っ端から嫌っていじめてきたBのがまだマシだとさえ思っていた。今まで仲良くしといて裏切るような真似して不要になった雑巾みたいに捨られるなら、最初から仲良くしないで欲しかった。


この頃には自殺を考えていた。
毎日気が狂いそうで、2階の教室の窓から「ここから落ちたら死ねるかな」「低いかもだけど花壇の煉瓦を狙えばいけるかな」とずっと考えていた。
いじめのメンバーの一人の家が7階だかのマンションだったから、当てつけにそいつの家で死んでやろうかとも思っていた。

そして自傷行為が出ていた。コンパスの針で手の甲を刺したり引っかいたり。
このような自己破壊的な行動傾向にはこれから今に至る十数年、悪化しつつ悩まされることになる。

私の精神は12歳にして壊れていた。
どうして小学生が自殺衝動と戦いながら生きなくちゃいけないんだ。

自ら「地獄の釜に自分から飛び込むようなバカな行動」とまで評していながら(母談)学校に通い続けたのは、母が「これで通うのをやめたら相手の思うつぼだよ」という言葉からだ。
※当初いじめのことは隠していたが1週間もせずに「突然Aちゃんの話をしなくなった」と母にバレた。読心術でも使えるのかと当時は本気でビビった。
だって理不尽じゃないか。被害者はこっちなのに。休むってのは学ぶ権利を奪われることだ。
……今でも私はこれには同意するが、最善手ではなかった。
逃げれば良かった。でも当時はそれが出来なかったのだ。
休むのは悔しかった。嫌だった。例えもう3学期で授業なんてほとんど終わっていても。

もし同じ状況の人がこの記事を読んでいたら、即座に逃げたまえ。余計なストレスは抱えないに限る。これから書くような道を、あなたには辿ってほしくはない。

途中、ストレスで蕁麻疹を出して倒れた一日を除けば、私は休まず学校に通い切った。
あと、笑い者にされたことにキレた私がAの取り巻きの一人に手をあげてしまい、教頭と担任からの1週間近い取り調べになる事件があった。これにより学校側が正式にいじめを認知したっぽい。まあだからといって特に何も対応は無かったけどな
ってか私が加害者になって初めて認知するって。あと私にやられた子がさも被害者って面で、自分の行いは親に告げなかったせいでその母親が100%私を悪者にして学校にクレーム入れたんだ。は?
私の心を殺したのにね。

よく3ヶ月保ったなと思う。
卒業式の日のせいせいした気持ちを私は一生忘れまい。やっと地獄とさよなら出来ると思っていた。切なさとか懐かしさなんて微塵も無かった。

 

【中学】

これで終わるならまだ良い。終わらなかったからこうして書いてるんだよ。
いじめは無くなった。小学校から申し送りがあったらしく、いじめ関係者とはクラスが被らなかった。
でも、何も無かったことにはならない。新しいスタートでハッピー中学ライフなんて無理だった。
第一に、同じ小学校出身の友人が皆無だった。友人の多くは縁が切れたから当然だ。ただし小学校の知り合いは多少クラスが被り、彼にはいじめられていたことをネタにされるなどした。

第二に、私は12歳にして極度の人間不信に陥っていた。
初対面からいじめてくる男子は嫌い。でも、仲良くしといて裏切る女子なんてもっと嫌い。子どもは残酷だし、大人だってロクに助けてくれない。つまり人間全部嫌いだった。
そんな恐怖の中でまともな生活を送れる訳がなかった。特に入学直後は話しかけてくる人がみんな敵に見えていた。
いつの間にか人と目を合わせられなくなっていた。
部活に入り友達は出来た。でも「この人達もいつか裏切るんだろうな」と思いながら過ごしていた。そう思うことで、本当にそうなってもダメージが少ないようにしていたのかもしれない。常に最低の想定をしていた。
部活ではわざと転んで見せたりしてドジなふりをして(先天的に不器用なのでガチ転びのことも多かったが)、ピエロになってみせた。そうすればみんな笑ってくれるし、私を雑魚と見下してくれて敵意を向けてこないだろうという打算もあった。でもバカを演じるのってとても辛かった。
※想定外の効果として、発達障害&IQのズレによる奇行も「まあ亀野だし」で済まされていたところがある。多少の救い。

第三に、Aをはじめとしたメンバーは、笑顔で中学生活を謳歌していた。
私はこんなに苦しいのにどうして、私は笑えないのになんで幸せそうなの。憎悪が生まれたのはこの頃だ。
そしてそんな自分に激しい自己嫌悪を抱いた。自分も含めて人間の汚さを見すぎて人間が全部嫌いだった。自傷も続いた。

毎年、Aのいじめがあった3学期が近づくと情緒不安定になった。冬が嫌いになった。
今年の冬も私は捨てられるんじゃないか。毎晩枕が涙で濡れた。悪夢に飛び起きた。
私の部活に途中入部してきたいじめのメンバーも私を苦しめた。合唱部という団体競技故、和を乱す真似は出来ず、みんなの為に表面上にこやかに接していた。苦痛だった。
よくもいけしゃあしゃあと私の前に現れたよな

あとAに一回喧嘩を売られてトラブルになった。これは担任に相談してなんとかなったがウザかった。

中学校と関係ないところだと、私は小学校、特に自分の母校に近寄れなくなっていた。母校の近くを通ると息苦しさや吐き気を催した。
ランドセルを背負った小学生が楽しそうに走っていくのを見ると、眩暈がした。
とにかく「小学校」を連想させるものが全て地雷と化した。これは大学半ば辺りまでは年々悪化していった。


【高校】

地元の進学校に進んだ。校風は良く平和なところだった。
ところがどっこい、Aも同じ学校に来た。クソ。
幸いクラスは被らなかった(2年次以降は担任に訳を話して配慮してもらった)が、廊下移動や選択授業まではどうにもならず顔を合わせざるを得ないことがあった。
その度に不快だったし、しかも何故か私の友人と友人になっていることが多くて不愉快だった。どうして私の人生から消えてくれないんだ、もう死ねとまで言わないから私の視界に入らないでくれ。そう祈っていた。
この時もまだ人間不信は続いていた。人と仲良くなるのが怖かった。少し不機嫌な態度を取られると不安になった。信頼できる仲間がいないせいか空想の友達を生み出して会話していた。
いじられキャラポジションも引き続いており、葛藤は中学とほぼ変わらない。ただ、変人の多い学校故、今思えばそこまでする必要は無かったかもしれない。でも当時は人間不信だったので。
引き続き合唱部に入っていたが、ここで同期の一人にえらく嫌われてしまい(オタクだからとか言われていたが、発達障害的なムーブをして嫌がられたのだと思う)、彼女との関係も私の不安を加速させた。幸いこの件は理解者がいたのでなんとかなった。
自傷は悪化していた。傷跡が残り始めた。服が血塗れになる日もあった。
お菓子を大量購入して無茶食いすることもあった。

更にしんどいことに、未だに憎悪を捨てられずいじめを忘れられない私に対して母親が苛立ち始めた。忘れられない自分が悪人みたいな感じがして、自分が嫌いになった。
私が悪いんじゃないのに、悪くないはずなのに、頭がおかしくなっていた。

自傷のことも含めて、外部に相談するのを母は嫌がった。一回先生に相談したら母に怒鳴られた。
「弟も入る学校で何をしてくれているの。弟に『自傷する姉の弟』ってレッテルを貼りたいの?」
大人の助けは期待できない。それから私は自分は自分で救うしかないのだと考えるようになった。


【大学】

やっとAとは学校が別れた。誰も知らない場所に来られた。
心理学を専攻したのは、自らの心をどうにか自力で治療したかったことと、いじめを科学的に捉えたかったからだ。
ある意味、いじめられなければ選ばなかった道だ。結果、結構合っている学問だったのは唯一感謝……はしない。
人間が嫌いなのに心理学って矛盾してるよな、と他学部の友人に言われたことがある。多分嫌いだからこそなんだろう。
ちなみにいじられキャラは大学部活で確固たるものになった。部活は好きだったが酷い鬱になったのは言うまでもない。いじられないと自分の居場所が無いように感じる。でもいじられるのはキツい。体調は定期的に崩していた。保健室の常連になってよく休みに行っていた。

学べば学ぶほど、今の自分が明らかに異常で病理を抱えていることと(大学に入ってからは解離症状が頻発していた)、専門家の介入なしに対処するのは不可能だと悟った。自力とかそんな域はとっくに飛び越えていた。
大学のカウンセラーの助けを借りて親に隠れて通院を始めたのが3年の冬。

 

ついた診断名は「気分変調症」。診断書に書かれた推定発症時期は2007年頃。つまり小学校後半。大きな原因は小学校のいじめ。


こうして私は病人になった。
奇妙な話だ。推定とはいえ発症は10年前(診断当時)。ずっと病人だった。いじめのせいで病人にされた。
これがもし身体的ないじめだったら、それで骨折でもして全治数週間だったら、謝罪やら賠償とかあったんだろうか。
でも誰も謝ってくれなかった。いじめた奴らはまだのうのうと生きていて、何の責任も負ってくれなかった。私の人生はめちゃくちゃになったのに。
今だって人と目を合わせるのが怖いのに。
もっと人に心を開いた楽しい中高生ライフを送りたかった。
冬の度にフラッシュバックに怯える人生なんて嫌だ。
もうすぐ24になる今でも怯えている。あの時の倍の年齢になるのに。

小6の校外学習の国会議事堂をもっとわくわくした気持ちで見たかったし、丁度その頃流行り始めていた友チョコにきゃいきゃいしてみたかったし、悪夢に震えない冬休みを過ごしたかった。ピエロにならなくても安心できる世界が欲しかった。

 

風の噂にAの父親が死んだと聞いた。
彼は自分の娘が一人の人生を壊したことを知っていたんだろうか。
誰も、まだ、謝りに来ない。