亀野の言葉を選ばない雑記帳

かめのが徒然書くところです。真面目なことからパッパラエピソードまで。

我が母校の自由な空気

私の高校はなかなかにフリーダムな場所であった。

冬に廊下でやけに香ばしい香りがするなと思ったら、ストーブでポップコーン作ってるクラスがあった。クラスの皆で食べたらしい。ウケる。じゃあうちのクラスはといえば肉と鍋を持ってきてしゃぶしゃぶやってた。は?
冬休みだか春休みだか、部活の先輩が「チョコフォンデュの機械あるから持ってくるわ!」と言って教室借りてチョコフォンデュ大会をした。部活動の体で。

 

先日ちらっと触れたが、亀野の高校は私の一つ上の学年まで公立ながら私服校だった。それもあってかとにかく校風は自由であり、またその自由を奪われそうになれば正当な手段をもって戦う(例えばあることで規制が強まりそうになった時は全校で署名活動が行われ学校に提出された)、ゆとりだなんだと言われる平成の世としては随分尖った学校だった。
ストーブの利用も特にお咎めはなく、先生たちも基本的に寛大であった。

そんな自由な校風を求めて入学する者も多く(それ故に人気でアホほど倍率高くて公立一本入試の私は震え上がった)、そのせいか色々な人が集まった。

 

※以下個人のエピソードを含むため、本筋に関わらない範囲で若干のぼかしを交えています


私の学年には入学早々自分が同性愛者であるとカミングアウトした人がいた。というかカミングアウトという程、カミングアウトではなかった。よく覚えていないがいつの間にか知っていた。そのくらい日常的に彼は自分がそうであるとオープンにしていた。
そして特に何もなかった。当然のように皆は彼の名前を呼び、喋り、共に笑った。彼は人徳もありユーモアもありいわゆるクラスの中心キャラだった。
私が鈍感だっただけかもしれないが、おそらく誰もが何も気にしていなかった。
少なくとも彼の悪口を聞いたことは一度もない。

彼は運動部に入り、選手にもなっていた。てっきり中学からずっとその競技をやっているのかと思っていた。しかしある日とんでもない話を聞くのである。
「いや違うよ。あいつ元々スゲー運動音痴」
彼はいわゆる歳上好きであった(これも公言していた)。そして部活の顧問をやっているおじ様教師に一目惚れをし、やったこともない競技の世界へ飛び込みマスターしてみせたのである。
愛の力ってスゲーなと当時の私は素直に感心した。

そんな高校で、ある授業の教科担任(50代くらいの男性、先述の部活の顧問とは別)が授業中に発した言葉が耳に残っている。
「そんなこと言って、本当は違うんでしょう?」
「いいえ、本当ですって。僕は男の人が好きなんです」
先生は近くの席の女子に言った。
「こう言って女の子を油断させようとしてるんだから」
話を振られた女子は返答に困ったのか何も言わなかった。
教室の空気が凍りつくとまではいかないが、何とも言えない空気になったのを覚えている。あの場で、彼が嘘をついていると思う人間はいなかったのだろう。
古い考えの教師に呆れているような、でも世代も世代だし矯正も無理だろというような諦めのような、そんな空気だった。

彼はいつだかこんなようなことを言っていた。
「自分の他にも言い出せないだけで同じような人がいる。自分が明言することがその人の励みになってほしい」
彼が統計学的な意味(学校全体で600人生徒がいれば他にも性的マイノリティの子はいるだろうという予測)で言っていたのか、それとも彼にだけ打ち明けていた人物が存在していたのか。今となって知る由もないが、私はすげぇなとただひたすらに感心するしかなかった。2回目。

あと他にもバイセクシャルであることを公言している人もいた。その概念をろくに知らなかった当時の私にとってへ~という感じだった。やはりそれだけである。

こういった環境で過ごしたのは私にとってかなり大きかったと感じている。

高校生の私は疑問や納得いかないところも抱えつつ、とりあえず女性として生きていた。ジェンダーへの混乱を抱え始めたのは成人後どころか大学卒業後のことである。そして「二十数年今まで疑問にすら思っていなかったのに」という点において私は激しく動揺した。

だが、人の性指向はその人間のあり方に関して何の問題ではないこと、そして性的なものに限らずマイノリティに対して差別的でない人間も少なからずいることを私は知っている。
これは最近になってより意識するようになった。

当時の私は小学校のいじめをまだまだ引きずっており今以上に人に心を閉ざしていて、クラスにもあまり上手く馴染めてはいなかった。でもそんな私も爪弾きにはされていなかったし、文化祭などのイベントは楽しく参加させてもらっていた。私なりに出来ることがあれば貢献できていたし、こんな根暗にも皆優しかった。
とにかく生徒同士での差別的なシーンにほぼほぼ出会わなかった。
だいぶ優しい空気の中で生きていけたと思う。もっと人に心を開いておけばよかったと今では少し後悔している。

広い世界を見るようになって、私の高校の空気ばかりではないことは分かってきた。何せ最も身近な人物である両親でさえ、従来の思想にかなり縛られていることに気づいた。
それでもまだ絶望せずに生きているのは、そればかりでないという希望を抱かせる母校の空気が私の中に息づいているからであるからだろう。